このブログでは、NPO法人なの花会の相談員による日々の支援活動の現場で考える様々な事柄や、当事者の方の体験談などをご紹介していきます。

精神疾患とリテラシー

国立保健医療科学院 所蔵貴重書 – 貴重統計書「流行性感冒(1922)」挿絵

今年の初め「中国武漢市で発生した原因不明の肺炎…」と伝えられた時は、まだ他人ごとのようでした。それがひと月もすると、日本中のあらゆる活動が自粛という事態に。そして「世界の新型コロナウイルスの累計感染者数が1000万人を超え、死者は50万人を超えた」と、つい先日のニュースは報じていました。アメリカやブラジルなど欧米諸国では、感染の勢いはおさまる気配がない状態。

こんな事態にもかかわらず、アメリカではどうして感染予防のためのマスクをしない人が多いのか、ということが昼のワイドショー番組で話題になっていました。そもそも大統領自らがマスクをしようとしません。当初は、世界保健機関 (WHO)でさえ、「健康な人はマスクをする必要はない」「マスクに感染症予防の効果はない」と言っていたぐらいです。

トランプ大統領支持者の多いアメリカ中西部は、特にマスクに対する抵抗感が強いらしく、その理由について昼のワイドショーは、「西部劇のような銃社会の価値観」を上げていました。

西部劇的なカルチャーでは、マスクというのは悪人の象徴であり、顔を見られたくないからマスクで隠すという印象になる。赤いバンダナで口を隠したスタイルは、まさに銀行強盗の定番。銃社会においては、自分がマスクをしていると「怪しい人間」と見られて「撃たれる」危険がある。反対に、他人がマスクをしていると「身の危険」を感じ、相手を撃ってしまう危険がある、と。

また、自主独立、開拓魂旺盛な「アメリカ人」は、自分の健康は自分で守る、「自分の身体」を守ることを強制されたくない、「マスクで守らなくてはならない」そんな軟弱な姿勢を見せたくない、というわけです。大変シンボライズされた絵解(えと)きで、つい拡散したくなるネタですが、ややわかりやすすぎるようにも思います。

国立保健医療科学院 所蔵貴重書 – 貴重統計書「流行性感冒(1922)」挿絵

いっぽう、日本ではもともとマスクに対する抵抗感はあまりなく、調べてみるとその歴史は150年前の明治時代にさかのぼるようです。今の厚生労働省の前身である内務省衛生局が出した啓発ポスターを国立健康医療科学院のサイト上で見ることができ、そこには、混みあう電車内で黒マスクをつけている乗客たちの様子が描かれ、厳しい警告が添えられています。

恐るべし『ハヤリカゼ』の『バイキン』!
マスクをかけぬ命しらず!
国立保健医療科学院 所蔵貴重書 –「流行性感冒(1922)」

今の「自粛〇〇」達の淵源は、実はこの内務省当時のDNAだったのだ…。「そうだったのか!」と、思わず「ガッテン」してしまいます。

アメリカにせよ日本にせよ、その国の民族意識というものは善悪だけでは判断のつかない、長い長い歴史的産物なのだ、ということをあらためて知らされました。

コロナの世界的な拡散は、同時におびただしい情報の拡散ももたらし、その功罪や明暗が浮き彫りになりました。実はこの情報へのアクセスという問題。ここからが当記事の本題になるわけで、すみません前置きが長くなりました。


日本では2月からコロナ自粛が始まり、安倍晋三首相の要請で小中高の学校現場は3月2日から臨時休校することが決まりました。これに合わせるかのように、私たちのNPOにも全国からの電話相談が増えてきました。もとより、当「なの花会」など、全国的に見ればほとんど無名の精神障がい者支援施設に過ぎないのですが、「統合失調症」「ひきこもり」などの検索キーワードでヒットしたのでしょう。おそらく、もっとメジャーな関係団体や医療機関には、相当数の電話が寄せられたものと想像されます。

相談の内容は多岐にわたります。当事者本人、ご家族、友人など、様々な立場ですが、相談者とお話している中で気づかされることは、みな「一様にある程度の情報をつかんでいる」ということです。 また同時に、いくつかの気になる点も見受けられました。それは、相談者の把握しているその情報が、「その人にとって親和性のある情報に偏っていたり、誤った受け止め方をしていたりする傾向がある」ということです。

精神疾患に限らず、健康上の問題であれば、まず近在の医療機関へ行って受診し、医師の評価(診断)をたずねるのがセオリーです。自己判断はとても危険であり、本人も家族も、その対応を間違うことが少なくありません。自分が調べた誤った情報(あるいは誤った解釈)により、自己診断に基づく誤った固定観念(信念)が作り上げられ、これが医師によるリアルな診断を妨げることがあるのです。

ネット上にあふれる情報の中には、どこのサイトを見ていても、同じような表現が散見されることがよくあります。おそらく、コピペ(コピー&ペースト)につぐコピペで、もはや、どれが本物か偽物かもわからない状況です。

「メディア・リテラシー」という言葉を聞いたことがあると思いますが、「リテラシー」というのは、古典的には「書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力」のことだそうですが、「メディア」の場合のそれは、以下のようなもののようです(理想的には)。

メディア・リテラシーとは、民主主義社会におけるメディアの機能を理解するとともに、あらゆる形態のメディア・メッセージへアクセスし、批判的に分析評価し、創造的に自己表現し、それによって市民社会に参加し、異文化を超えて対話し、行動する能力である。(wikipedia

比較的利用度の高いSNSであるTwitter(ツイッター)では、有害なメッセージに対して警告を表示する機能(システムおよび通報や監視により)があり、トランプさんは良く警告を受けているようです。しかしながら、そのような機能があっても、すべての間違った情報をフィルタリングすることはできないでしょうし、その他一般のサイトでは、いわば無制限に情報の発信が可能なため、その真偽は、まさに読み手の力量によってのみ左右されます。ひとことに「リテラシー」と言っても、単に意識を持つということだけで、簡単に身につくものではないでしょう。

このブログでは、この辺の問題を含め、これから皆さんと一緒に考えていきたいと思っております。


NPO法人なの花会 相談支援員
精神保健福祉士 加藤峰生

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